東京ありがた記

東京ありがた記

Arigataki is written in Tokyo.

NISA陰謀論と私たちのお金の行方〈ママ編〉

NISAの陰謀論ですって?そんな話、私に言わせればまったくナンセンス!そもそも、政府がわざわざ国民をだましてまで市場にお金を流し込む?そんなことが本当にできると思っているのなら、あなたたち、政治の何たるかを全然理解していないわ。

まず、NISAというのは、国民に少しでも投資のチャンスを与えるために設けられた制度なんですよ。あのね、投資ってのは、もちろんリスクがあるものよ。だから、損をする人もいれば、得をする人もいる。それを理解しないで、「政府が陰で糸を引いている」だの、「金融機関が私たちを食い物にしている」だの、まったくバカバカしい。現実をもっと直視しなさい!

確かに、政府や金融機関が利益を追求しているのは間違いないわ。でも、それが即、陰謀だって飛躍するのは、あまりに短絡的すぎるのよ。いい加減、大人になりなさいな。どこの国だって、経済を動かすためには一定の介入が必要なの。でもそれは、国を回していくための責任なんです!

あなたたちがNISAを利用するかどうかは、あくまで自己判断なのよ。国が「これをやりなさい」と言っているわけじゃないの!国民にチャンスを与えたって、取るかどうかはあなた次第。その選択を放棄して、「政府の陰謀だ」なんて言うのは、無責任極まりない。そうやって何でも他人のせいにする癖、今すぐ直しなさい!

いい?日本は、経済を活性化させるために、あらゆる手段を模索しているわけよ。その中で、国民が少しでも自分の資産を増やすチャンスを得られるなら、使わない手はないわ。それを陰謀論なんて戯言で片付けてしまうのは、あなたの将来にとっても、非常に危険よ!もっと冷静に、しっかり自分の頭で考えなさい!

NISA陰謀論と私たちのお金の行方〈居酒屋編〉

NISAの陰謀論だって? 笑わされる話だ。誰がそんなこと信じるんだというのだろう。だが信じてる人はそこそこいるようだ。たしかに陰謀論というものは一度頭にこびりついたら、全部が裏でつながってるような気がしてくるものだということも理解できる。

そしてその手の話をするのにうってつけの場所といえば居酒屋だろう。居酒屋の空間は全てを呑み込み後には何も残らない。

居酒屋では今日もまた陰謀論が聞こえてくる。

「NISAってヤバいんじゃねいの?」「政府は俺たちみたいな一般人を利用して、経済回そうとしてんだよ。NISAで小遣い稼ぎさせて、最終的にドカンと損させる。で、損した金はどこ行くかっていうと 全部、あいつらが吸い上げるんだよ」

確かに政府や金融機関にメリットがあるのは事実だろう。しかしNISAという仕組みの特性を踏まえた上で、どう動くかは自分で決められる。リスクを取って自分の資産を少しでも増やしたいなら、NISAでも何でもやればいい。結局、陰謀論を言ってるだけじゃどうにもならない。自分で考えずに動かない人間が一番損する。

陰謀論が刷り込まれると人は不安になるのだろう。だNISAがあろうがなかろうが、いつでも何かが起きる。世の中は元々不安だらけだ。それを怖がってじっとしていても何も始まらない。誰も自分の人生を助けてくれないし、もしも陰謀論が正しかったとしても、それで得られるもんなんて何もない。

世の中、何が本当で何が嘘かなんて、いちいち考えるだけ無駄だ。それより、今この瞬間をどう生きるかだろう。もしもあなたが今居酒屋にいるのであれば目の前のアルコールを呑めばいい。それが生きるということだ。

NISA陰謀論と私たちのお金の行方〈バー編〉

NISAについての陰謀論、それが何だというのか? 何も特別なことじゃない。噂や憶測、何か得体の知れないものが裏で動いているという、お決まりのパターンだ。真実がどうあれ、大して重要じゃない。何を信じようが、結局、みんな自分の財布と戦わなければならないのだから。

ある日、陰謀論に感化された男が都内のバーでこう言った。「NISAなんて、ただの罠だ。政府が俺たちの金を市場に突っ込ませて、景気を維持しようとしてるんだよ。何も知らない奴らを巻き込んで、最後には全員大損することになる。あいつら、俺たちをどうでもいい消耗品としか思っていない」

私は黙って男の話を聞いていた。彼の言うこともわかる。システムというのは、いつも上にいる連中のために設計されているし、我々はそのゲームの中で生きている。それはこれからも変わらないだろう。しかし、男が知らないのは、我々にだって選択肢があるということだ。NISAはただのツールだ。どう使うかは私たちの問題だ。金を投じるか、財布の紐を締めてじっとしているか、それは自分で決めればいい。

「確かに、投資なんてギャンブル的は側面もあることは確かだけど」と私は言った。「でも、NISAはそのリスクを少し軽くするために作られたもんだよ。税金がかからない分、利益を取りやすい。全部ぶっこんで借金する必要もないし、ちゃんと計算してリスクを取ればいいと思う。むしろ、それができない奴が多いから、政府がこういう制度を作ってるんじゃないか?」

男は鼻で笑った。「そんなきれいごとは、金融機関の広告だけにしてくれよ。連中は手数料で儲けるために、オレたちみたいな小市民を利用してるんだから」

その意見も理解できる。金融機関は確かに手数料で儲けているし、NISAがなければ彼らも商売にならない。だが、考えてみてほしい。もしNISAという仕組みがなかったらどうなるのか? 投資なんて一部の金持ちだけがやるゲームになってしまうだろう。私たちが自由に参加できるチャンスなんてなくなる。だからといって、私たちが市場を動かす機関投資家のようになれるわけでもない。だが、少なくともチャンスはあるんだ。それを捨てるかどうかは私たち次第だ。

「結局、我々ができることは少ないんだよ」と私は言った。「NISAに参加するのも自由だし、しないのも自由だ。でも、参加しなければ、何も変わらないし、少しのリターンも得られない。資産を増やしていくシステムとしては少なくとも今考えられる中で最善のものだ。そしてそれを我々は選べる。あんたも知ってるはずだろ?」

男は無言のまま、アルコールのグラスを傾けた。私たちはそのまま静かに時間をやり過ごした。バーの片隅で音楽が流れている。経済も、政治も、NISAも、そしてバーも、結局のところ、私たちが人生で関わる出来事の一部に過ぎない。そんなことに毎日少しずつ関わりながら選択をし続けていくしかない。できれば、何も期待せず、それでも手を伸ばす。

NISA陰謀論と私たちのお金の行方〈喫茶店編〉

NISAにまつわる陰謀論というのはまるで、喫茶店の隣のテーブルから聞こえてくる噂話のようなものだ。それは何かの出来事の断片を拾い上げて、あたかもそれが複雑なパズルの一部であるかのように語られている。でも、実際には、そのパズルのピースはどこかから勝手に引っ張り出されてきたもので、全体像なんてものは誰もわからない。

たとえば、ある人は言う。「政府はNISAを通じて、僕らの資金をマーケットに流し込みたいんだ。経済を支えるために僕たちを使おうとしている」と。

まるで僕らが経済という巨大な機械のネジかギアで、知らぬ間にその歯車を回しているような気持ちになる。でも、私は思う。歯車の一部として回されることと、自らの意思で投資を選び、リスクとリターンを計算しながら自分の未来を築くことは、全く別のことだと。誰も私に投資を強要しているわけじゃない。

また別の人は、「NISAなんて、金融機関が儲けるための仕組みにすぎない」と口にする。確かに、銀行や証券会社は手数料を取るだろうし、彼らもビジネスをしている。でも、そのために私たちはNISAを使って資産を増やす道を閉ざされるべきなのだろうか? そんなことはない。我々には選択肢があるし、金融リテラシーを高めて、自分自身のために使えるものを使えばいい。それはただの道具でしかない。道具をどう使うかは、最終的には私たち次第だ。

陰謀論というのは、時に妙に魅力的に感じる。全てのことに見えない大きな意図があると考えれば、世界は単純になるからだ。でも、現実はもっと流動的で、偶然が重なり合って今の形を成している。NISAも、その一つの偶然に過ぎない。きっと、政府や金融機関が何か意図を持って導入した部分もあるだろうけど、最終的に私がそれを使うかどうかは、私自身の問題だ。

私は喫茶店から出ると外には何も特別なことは起こっていない。ただ風が木々を揺らし、人々が行き交い、それぞれの人生を生きている。それはNISAがあろうがなかろうが変わらない。

ひとり山手線ゲームについて

意識をするだけで、自宅から会社に向かう通勤途中ですら、我々は自分の当たり前と他者の当たり前が交差する瞬間に出くわす機会がわりと多いことに気づく。

例えば、電車の座席だ。山手線など都会の電車では空いている場合、まず①両サイド、次に②ひと間隔空けて座り、最後は③空いている席が埋まっていくという暗黙ルールがある。

今日私は山手線に②の状態で腰をおろした。数駅先で若いカップルが大きな荷物を携えて乗車してきた。女の方が私の左隣に座った。男の方は女の前に立っている。私の右側の座席は空いたままだ。

ここで私が右側に移動すれば男は私の元いた場所に座るだろう。そうすれば女の隣にいれるからだ。日本においてそれが当たり前の様式となっている。それをすることが親切なこととも思われているようだ。私もカップル側の立場だったらそれが当たり前だと思うだろう。

ところが私は動かなかった。私の右隣の席は空いたままだ。つまり男は女の前に立つことを選んだ。

まもなくして私は下車した。振り返ることもしなかったので、私の座っていた席に男が座ったのかどうかもわからない。

それにこんな些細な出来事なんてあのカップルもどこかで下車する頃には忘れているだろうし、一生思い出すこともないだろう。例え私が座席を移って男ののぞみ通り女の横に座れたとしても同じことだっただろう。だからといって私はこの先も席を移らないと決めたわけではない。私の当たり前も明日には変わっているかもしれないし世間の当たり前もまた。

田中角栄が令和に転生したらやりそうな政策とは?

田中角栄は政治家というよりも、巨大なエネルギーそのものだ。彼が動けば、国も動く。いや、むしろ、彼が動くから国が動くのかもしれない。彼が見据える未来は広くて遠くにあるが決してぼんやりしてない明確な未来だ。今の日本に欠けている何かを取り戻すため、田中角栄は再び政治の中心に戻ってきた。昭和の伝説が、令和の舞台で再び息を吹き返す。

日本の経済は失われた三十年を経て、世界の舞台での存在感を薄め、社会の歪みは深まっている。人口減少、高齢化、そしてデジタル化の波に乗り遅れた日本は、かつての輝きを失ったままだ。

角栄は、日本の未来をじっと見つめていた。彼の目には、まだ見ぬ風景が広がっていた。彼はふと思った。国のすべてが目に見えるものだけで成り立っているわけではない。見えないところで、人々の心が繋がり合い、その繋がりがまた新しいものを生み出していく。それがこの国の本当の力だと。

「この国は、ずっとどこかで迷子になっているのかもしれない」と彼は思った。経済成長は止まり、社会は疲れ果てていた。けれど、どこかにまだ暖かさや柔らかさが残っているはずだと彼は信じていた。それは、子供の頃に見た風景のようなものだった。角栄はその風景を取り戻したかった。

「まずは、地方だな」と彼は心の中で呟いた。地方は日本の記憶の中に眠る、忘れ去られた夢のような存在だ。だが、その夢はまだ完全に消えてはいない。 都会の光に埋もれて見えなくなった場所に、まだ人々の温かな記憶が残っていると彼は感じていた。角栄はインフラ整備だけでなく、そこに新しい物語を注ぎ込もうと考えた。地方の小さな町や村に眠る人々の記憶を掘り起こし、そこに人々が感じる「居場所」を作ることが大事だと考えた。 それを繋ぎ合わせることで新しい日本の未来を紡ぎ出すつもりだった。

そして、その次は外交だ。角栄は日本が長らく手をこまねいていたアジア諸国との関係を再び強化するつもりだった。だが今回は単なる友好関係を築くためではない。 彼の頭の中ではアジア全体が一つの広大な風景として広がっていた。 その風景の中には、様々な国々の文化が溶け合い、そこから新しい「何か」が生まれるのを彼は感じていた。彼はその「何か」を日本の未来のために使おうと考えた。

「経済だけじゃない」と角栄は続けた。「文化も、生活も、すべて一緒に引き上げてやるんだ」

角栄はまた、日本の若者たちを見守りたいと感じた。彼らはどこか、孤独で迷子になっているように見えた。スマホの画面に向かいながら現実との接点を見失ってしまっているような、そんな感覚を持っていた。角栄は彼らに現実の中で自分の場所を見つけられるような環境を作りたかった。角栄は古いイメージを脱ぎ捨て、現代的なメディアを通じて日本の若者たちに直接訴えメッセージを送り続けた。彼らが持つ不安や苛立ちを敏感に感じ取り、それを自らの原動力に変えた。

田中角栄という存在はただの政治家ではない。彼は人々の心に火をつけることができる。彼が語る未来には誰もが参加できる可能性が広がっている。それは壮大でありながらもどこか親しみやすい。 田中角栄が再び首相になればこの国はもはや停滞してはいられない。彼は過去を振り返ることなく未来に向かって突き進むだろう。

上野のパンダの価値について

 上野のパンダ。彼らの価値がどれだけ計り知れないものか、という話をしよう。

私たちが上野動物園に足を運ぶ理由は、単にパンダが「可愛い」からじゃない。それは表面的な理由に過ぎない。真の理由はもっと深いところにある。

まず、パンダはシンボルだ。しかも、単なる動物園の目玉という存在を超えて歴史の一部と言っても過言ではない。1972年の日中国交正常化の象徴として、パンダはまるで外交の駒のように送り込まれた。それ以来、パンダは上野に根を張り、その価値を年々増していった。彼らは「希少性」というマーケティング的価値を超越し、上野そのものの価値を形成している。

次に、その存在が経済に与える影響だ。上野のパンダを見に来る観光客は、動物園の入場料を払うだけじゃない。周辺の飲食店、宿泊施設、土産物店、ありとあらゆる経済活動が、彼らの存在によって潤う。経済的な効果は計り知れないが、それは単なる金額の問題じゃない。上野というエリア全体を活性化し、持続的な成長を促している。

しかし、本当に興味深いのは、パンダが持つ「感情的価値」だろう。彼らを見た人々は、何か特別なものを感じる。それは、幼い頃の純粋な喜びであり、大人になってから失われたものを再び取り戻す感覚だ。パンダは人々の内面にある、何かを再起動させる。それが、彼らの真の価値だ。

そして、その感情的な波がSNSやメディアを通じて広がり、さらなる波を生む。パンダは一種の現象であり、その現象がさらに人々を引き寄せる。彼らはただの動物ではなく、上野の、いや、もっと大きな枠組みでの「現象」として存在している。

結局のところ、上野のパンダはただの動物園のアトラクションではない。彼らは経済、感情、そして社会全体に影響を与える「現象」だ。その価値を理解するには、表面的な視点を捨て、もっと深く潜り込む必要がある。そしてその深みこそが、上野のパンダの圧倒的な価値を生み出している。彼らはただそこにいるだけで私たちを少しだけ豊かにし続けてくれている。

月曜日を嫌いにならない考えかた

月曜日は、日曜日の夕方、まだ夕陽がほんのりと暖かい頃にそっと現れるのを感じる。だけど月曜日は何も言わない。ただ、そこにいて、そっと隣に座るだけ。

ところが夜が空けて朝がきた瞬間から月曜日は一切の妥協を許さない。どんなに酔っていても、どんなに疲れていても、月曜日の前では逃げ場はない。そして私たちに問いかける。「今週、お前は何をするんだ?」と。

さらに「今週こそやってやるんだろ?」と挑発してくる。それは私たちに力を出させることもある。

月曜日と過ごすことで、私たちは強くなる。少なくとも、月曜日に耐えられるようになる。月曜日は愛されることはないが、誰もが月曜日の存在を否定できない。これからも月曜日は毎週しつこく私たちの元を訪ねてくる。

だからこそ、私たちはまた新しいことに挑戦できる。少しだけ憂鬱だけど、そのおかげでまた頑張ろうって思えることもある。月曜日がなければ、人生は少しだけぼんやりとしてしまう気がする。

 

 

 

9月のことを考える

9月という月は、特別なテンションを持っている。真夏の狂騒から抜け出した人々は、徐々に現実に戻り、少し冷静になり始める。身体はまだ夏の余韻を引きずっているが、頭の中ではもう秋のことを考えている。気温は次第に落ち着き、夜になると涼しい風が肌を刺す。だが、それは心地よさというより、次第に忍び寄る孤独感に近いものだ。

まず、いいところから話そうか。この時期は、やっとまともに外を歩けるようになる。真夏のあの地獄のような暑さが和らいで、夜になると涼しい風が吹く。何でもない夜の静けさが、妙に心地よく感じられる。

そして収穫の季節が訪れることもいいところだ。市場には新鮮な果物や野菜が並び、特に秋の味覚は豊かで、体を癒してくれる。食べることは、ある種の救いであり、日々のストレスから逃れる一つの方法だ。美味しいものを食べることは、短いけれど確かな幸福感をもたらす。それは、欲望に忠実であることの証明でもある。

 

だが、9月というのは台風のシーズンでもあることを忘れてはいけない。自然の脅威がいつ襲ってくるかわからない不安が、人々の心に重くのしかかる。家が壊れるかもしれない、街が水に沈むかもしれない。そういった現実の可能性が、平穏な日常を脅かす。

そして、夏の終わりが持つあの妙な虚無感。楽しい時間が過ぎ去り、次に何が来るのかわからない不確定な未来が待っている。 でも、終わりがあるからまた次が楽しみになってくる。こういうことはどこかでしっかりケジメをつけておかないとずるずると気持ちが続いてしまって何だか次に進めないものなのだ。 静けさの中に隠れた騒がしさと、平穏の裏に潜む不安定さ。 自然の流れに逆らわずそのすべてを受け入れるながらうまく乗り越えていくと秋がやってくる。だから9月というのは、季節の準備期間みたいなものかもしれない。何かを終わらせて新しい何かを始める。そんなタイミングを教えてくれる月なのだと思う。

 

防災は今の自分の心の状態

防災って「もしも」のための「今」のことなんだと思う。

私たちは、毎日同じような朝を迎え、同じような夜を迎える。だけど、油断した瞬間に、すべてが崩れ去る可能性だってある。地震津波、台風、自然災害は、無差別に襲いかかってくるものだから。そこには正義も秩序もない。ただ圧倒的な力があるだけ。

そんなこと普段の生活で、あんまり考えたくないけど、考えなきゃいけないことだ。だって「もしも」はいつだって突然やってくるものだから。

でも防災って恐れを感じながらするものじゃなくて、もっと日常の一部にできるものなんだと思う。例えば、家に帰ってきたときにカギをかけるように、あるいは外に出る前に天気をチェックするように、自然な感じで備えられるといいよね。備えることは、そんなに難しいことじゃない。

「今日は晴れてるけど、傘を持って行こうかな」みたいな感じで。そう考えてみると防災とは、未来の自分に対する優しさなのかもしれない。大切なのは何かが起こる前に、その優しさを少しだけ今の自分に向けてあげること。

だから防災って、ちょっとした心の余裕と、生活の中にあるほんの少しの工夫なんだと思う。