東京ありがた記

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Arigataki is written in Tokyo.

ウォーレンバフェットと読書習慣をつくるための3冊

もしあなたが読書の習慣のない人だった場合、毎日数知れない機会を逃している

毎日500ページを読む読書アスリート、バフェットさんの言葉です。

そして「数知れない機会」とはどういう意味なのか、次のように言い表しています。

実は本を読めば、ベン・フランクリンや世界の歴史上のあらゆる偉大な人物とランチを共にすることができる 

ベン・フランクリンは米国の100ドル紙幣になってる超偉人です。

そんな歴史上の人物たちが直接教えてくれるのが本なんだよと、バフェットさんは読書の計り知れないメリットをそんな風に説いています。

読書のメリットを享受したいぞというみなさんは、こちらもご一緒にどうぞ。

ikenohatazo.hatenablog.jp

ウォーレンバフェットと『賢明なる投資家』

ところで、バフェットさんはどんな本を読んでいたのでしょう?

ありがたいことにその本のいくつかは公表されているし現代の私たちも日本語版で読むことができます。

そのなかでもバフェットさんの投資の師匠による『賢明なる投資家』が特に有名です。

「割安株の探し方」や「安全域」などバリュー投資の奥義が世界初出典

バフェットさんは『賢明なる投資家』を読んだことで投資家として空前の大成功を成し遂げたと言えるかもしれません。

しかしそんなバフェットさんでも長い投資人生の中で何度も失敗をしている事実もあります。

おそらくバフェットさんは失敗の度に『賢明なる投資家』を再読していてたのではないでしょうか。

そうやってバフェットさんは長い時間をかけて『賢明なる投資家』の行間を埋めていったのではないでしょうか。

その末に「賢明なる投資家」から後に「オマハの賢人」と讃えられるスタイルを確立したのではないでしょうか。

ウォーレンバフェットと『スノーボール』

バフェットさん唯一の公式自伝のタイトルは『スノーボール』といいます。

読めば分かる投資の正解

スノーボールとは雪の玉のことですが、最初は小さな雪の玉も坂道を転がせば雪だるま式に大きくなるように、バフェットさんは投資資産を拡大してきたことを表しています。

そんな誰にでもできるシンプルな投資手法なのに、なぜみんなマネしないのかとバフェットさんに問うた人がいまいた

バフェットさんの答えはこれまたシンプルです。

ゆっくりお金持ちになりたいなんて、誰も思わないからでしょう 

ウォーレンバフェットと『バフェットバイブル』

名言集は自伝の濃縮還元みたいなものです。

ひとつひとつの名言のなかにバフェットさんの数十年の人生がつまっているからです。

相田みつをか?バフェットか?

『バフェットバイブル』にはどれもシンプルな言葉で満ち溢れています。

それは例えばあの相田みつをさんの言葉のように心にぢわ〜っときます。

バフェット日めくり名言カレンダーがあったらいいのに。

ちなみに東京の有楽町にある相田みつを美術館は素晴らしいので一度行ってみることをおすすめします。

ウォーレンバフェットが忠告する「よからぬ読書」とは?

バフェットさんは自らの経験から読書の力を信じているようですが、決して自分の投資スタイルを人に薦めているわけではありません。

私もバフェットさんと同じように『賢明なる投資家』を読みました。

そして『スノーボール』も『バフェットバイブル』も何度も読みました。

大量の本を読むとたしかに色んなことを知ることができるし賢者になったような気分にもなります。

しかし、実体験を伴わない知識でうまくいくほど投資は甘くありませんでした。

一度自己満足の感覚を手に入れてしまった時が危険だ 

そんなふうにバフェットさんが忠告していたことを知ったのはずっと後になってのことでした。

その後私は個別銘柄からは完全撤退し、バフェットさんが家族への遺産として残すと言われているS&P500インデックスファンドに投資を続けています。

つまり、ゆっくりお金持ちになろうと思ったのです。

しかしデメリットもあります。

  • すぐに結果はでません。
  • 長い間お金をマーケットに置いておかなければなりません。
  • かなり地味です。

ここは受け入れましょう。

事実、バフェットさんはずっとそうやって投資をしてきたのですから。

そして投資するのと同じように読書習慣を積み上げていくことの大切さもお判りいただけたのでは?

豊かな食生活を生み出す「外食離れ」大作戦

外食でいちいち気になってしまうこと。

外食をもう何年もしていない。外食を楽しめなくなった。

もう少しこまかくいうと自宅でないところで食事をすることに向いていないことに気づいてしまったのだった。

外食の場である料理店は基本的にお店のルール下のもとオペレーションがされている。

私が外食を敬遠するのには客もそのルールに従わなければならないから。

そこには主にコスト的理由と環境的理由の2つがある。

まずはじめに、料理店で出される食事を見るとすぐに私の頭の中にはコストを示す円グラフが浮かんでくる。

原価だけならそんなに高くないが、そこにお店の人件費、固定費、利益、さらに消費者が乗ってきている。

外食はうまくてあたり前。

そんな当たり前のことにこれだけのコストを払う気になれない。

次に環境的理由だが、私が感じている外食のリスクの中に座席の位置問題がある。

特に都会のお店は隣との席がめちゃくちゃ近い。

隣のテーブルが2人以上だったとすると当然会話がよく聞こえてくる。

そんな時物理的距離が近すぎるためヘッドホンをして話し声を遮断することにしているがそれでも聞こえてくることがある。

もちろん隣に誰もいないこともあるしいたとしてもひとり穏やかに過ごしている人たちもいる。

しかしいつどこで食事をするかによって外食環境が変わってしまうのだ。

私たちもお店の誰もコントロール不可能だ。私たちは安くないコストを払うのに理想的な環境で食事を楽しむことはほとんど運にかかっていると思う。

これこそ私の外食離れの大きな理由でもある。

食欲の行き先は外向き?内向き?

自宅でしかできないこともある。

例えばムケッカというブラジル北東部の郷土料理がある。

魚介類をココナッツミルクで煮込んだブラジルのカレーみたいな料理だ。

私はかつて鎌倉のカフェで初めムケッカを知った。

最近ムケッカを自宅で再現してみた。

メニューはブラジルのムケッカといつものみそ汁、そして三重産の焼酎のソーダ割を組み合わせた。

ムケッカやその他の食材にかかるコストは当然原価のみだ。そして食卓には妻と私だけ。

服も部屋着だし音楽も自分たちで選べる。普段とおりの住環境下だ。

いつのまにか私たちは外で食べるものとウチで食べるものをはっきりと区別しているように感じる。

自分で作れないものは外で、自分で作れるものはウチでという具合に。

私はその区別をなくすことにした。私の場合うまいものを食べたいというモチベーションは外食に向くより実際に作ってみる方向に向かう。

そのための材料や情報はどこでも手に入るのが現代だ。

食べたいものを理想的な環境で食べたい。そんな費用対効果の高い食生活をこれからもずっと楽しみたいと思っているのだ。

おわり

ストレスが溜まってしまう原因

ストレスが溜まって

報告、連絡、相談。

お仕事でよく使われるスローガン「ほうれんそう」です。

そしてもうひとつ「こまつな」というのがあることはご存知でしたか?

「困ったら、使えるやつに、投げる」を意味しています。

「ほうれんそう」が日本の働き方の理想形だとしたら「こまつな」は実情でしょう。

このことは仕事の場面だけにとどまりません。例えば神様、仏様、何々様の他力本願マインド。

近所の神社にて毎年梅の季節に訪れるたびに目にする幾層にも重なった絵馬。あるいは日本一の縁結びスポットでよくみる光景もそう。

さらにプロ野球のピッチャーを大魔神と崇める奉っていた心理も「こまつな」行為を現しているように思えてきます。

 

かつてなく自分と向き合ってみて分かった大切なこと

フランスの経済学者ムッシュジャック・アタリはこんなことをいっていました。

ポジティブな人は自らゲームに参加してうまくプレーできれば勝てるぞと考える。

楽観的な人は観客としてゲームを見ながら自分のチームが勝てそうだなと考える。

今まで「ポジティブ」と「楽観的」は同義かと思ってましたがどうやら違うようです。

ムッシュの言葉を借りるなら、ポジティブな人は「ほうれんそう」タイプ、楽観的な人は「こまつな」タイプと言えるかもしれません。

思えば私はずっと楽観的なやつでした。今も少しそうかもしれませが少しずつポジティブになってきています。

楽観的からポジティブにシフトしてきた過程に何があったのかというとサラリーマンを辞めたことです。

サラリーマンを辞めると毎月のお金が入ってこなくなります。

人からの連絡も途絶えていきます。すると今までほったらかしにしていた自分と向き合うことを余儀なくされます。

これは大きな大きな試練です。

しかし自分とガチンコで向き合うことで私は大きな人生の気づきを手に入れました。

それは自分がラッキーになれる場所の発見です。

 

サラリーマンがとてつもない機会損失をしている理由

人はラッキーになるために「こまつな」に頼る必要はありません。

ラッキーにはちゃんとした仕組みがあるからです。たったふたつのことです。

①苦手なことに手を出さない近づかない。

②勝てそうだと思う場所に居続ける。

こんなにシンプルなのにやっぱりサラリーマンの頃は気づけませんでした。

私たちは毎月お金が入ってくるのと引き換えに「自分」をずっと置き去りにしてしまっているのです。

私の場合サラリーマン時代がずっと苦痛だったのはきっと①②とは真逆のことをしていたからでしょう。

このことは何年も続けている投資にも当てはまりました。

人気化した株を高値付近で買ってしまうのは毎度のこと。

さらに良くないのは損切りできないこと。

ずるずると下がり続けて大切なお金が減るわ動かせないわでストレスがすごいのなんの。

しかし現在の私はそうではありません。

苦手な投資対象から手を引き、自分がこれまで勝てていた場所、これからも勝ち続けるこができる場所を探しあて、資金をただ置いているだけです。

私の場合何事もストレスフリーでいたいのです。数々の失敗を重ねてやっと発見した私のラッキー島です。

ラッキーになるためには初めに少しの努力が必要です。

その努力は世の中で流通してきた伝統的な努力とはまったく違います。なにせ人生を楽にするのが目的ですから。

おわり

ネットに降臨した坂東玉三郎さんにこの先期待したいこと。

2020年の春は、色んな人が自宅からコンテンツを発信していましたよね。

歌舞伎役者の坂東玉三郎さんもそのひとりでした。

人間国宝のお方です。

 

 

坂東玉三郎の自宅で起こったこと。

まずは玉三郎さんが自宅で舞踊のお稽古を披露してる動画をご覧ください。

坂東玉三郎ビデオメッセージ

その場所は自宅マンションの廊下でしょうか、壁も天井も床も真っ白。

白い椅子とその上に置かれたノートPCまで白。

もちろん玉三郎さんのお召し物も白。

「白の廊下」で舞う玉三郎さんこそまさに日本の宝。

それにしても踊るにはいささか窮屈さを感じる廊下です。

玉三郎さんのマンションですらこんな間取りなんですから、このスタイルが今の日本のスタンダードなのでしょうか?

 

坂東玉三郎邸を映画の巨匠はいかに思うか?

玉三郎さんの動画の少し前、私は小津安二郎監督の映画を観ていました。

そこには日本家屋の廊下が気持ちよく広々として映っていました。

その明るくて広い廊下の端々に古美術の箱が置かれていたり、登場人物が歩いたりしていました。

当時の着物のデザインが案外大胆だったのが印象的です。

かつて何がいいのかもわからないままボーっと小津映画を見ていた私。

そしていつの頃からか私はアート好きになっていきました。

興味は古今東西の美しいものに拡大していきました。

小津安二郎監督の映画は日本文化の美そのものです。 

さらに小津安二郎による日本の住宅空間の構成が美しいのです。

その構成要素は例えば、開け放たれ襖、物干し竿と洗濯物、畳の上のオヒツやヤカンだったりします。

どれも生活感があるものばかりです。

しかし小津監督の構図を通すと生活感が消失していくのです。

まるで現代アートを見ているような気分になります。

さすがに小津監督いえども玉三郎さんのマンション、ひいては最近の日本の住宅でいい絵を撮るのは難儀なことでしょう。

もしも坂東玉三郎さんがユーチューバーになったら。

玉三郎さんの配信動画は、玉三郎さんが作陶している様子まで紹介されています。

趣味の範囲なんでしょうけど、京都の樂家から土をわけてもらってるというのです。

ギリシア神話のミダースは触ったもの全てを黄金に変える能力、「Midas touch」を持っていたそうですが、玉三郎さんの場合、触るもの全てを国宝に変えてしまいそうな「タマサブロータッチ」でしょう。

玉三郎さんの樂茶碗見てみたいですね。

できることなら一服いただきたい。

いや、一服いただかなくとも結構です。

玉三郎さんには歌舞伎界初のユーチューバーとなっていただきたい。

「国宝!玉三郎チャンネル」立ち上げる日を私は待っています。

〈記事ここまで〉

いつでもどこでも何度でもおいしいコーヒーが飲みたい人への答えはコレ!

コーヒー好きの理想

鎌倉にあるカフェのマスターがsnsのアカウントでコーヒーのおいしい淹れ方動画をあげていた。

動画ではアンティークのコーヒーミルも紹介していた。マスターのコレクションをいくつか見せてくれたがプジョー社製のミルが色といいフォルムといいたまらなくかわいらしかった。

私は10年くらい前に例のカフェオリジナルカラーの電動コーヒーミルを購入して今でもたまに使っているが、それがプジョー社製ミルの色にそっくりだった。それもそのはずでマスターはこのカフェオレにも似た色を参考にしていたらしい。初めて知った話だった。

あと手動のコーヒーミルも紹介していた。セラミック製のシンプルなデザインでカッコいい。これまた私も以前使っていたことがある。手動でガリガリと豆を引く場合、電動ミルだとほんの一瞬でできることに数分かかってしまう。そしてけっこうつかれる。しばらく併用していたけどやっぱり便利で簡単な電動ミルしか使わなくなった。とはいえ、ここ最近は電動ミルすらあまり使っていない。使ってないけどキッチンに置いてあるとカフェオレ色は相変わらずかわいい。

コーヒー好きの実際

ミルを使わなくなったからとはいえ毎日ドリップしてコーヒーを飲んでいる。そしてコーヒー豆はコンビニのセブンイレブンで売ってるものを使っている。

セブンイレブンのコーヒー豆にしたきっかけは単純だ。店内の100円コーヒーを飲んだ時にうまかったからだ。同じ頃マクドナルドでも100円コーヒーが人気だったけどセブンイレブンの方がうまかった。そのうまさは100円にしてはうまいというレベルではなくてマジでうまかった。(当時のセブンイレブンはドーナツにも力を入れていて仕事の合間とかにコーヒーとの組み合わせで食べるとちょっとした幸せを感じることができた。)

だとしたら毎回ドリップされたコーヒーを買うより、挽いた豆を買ってきてウチで淹れた方がお得なのではと考えたのだ。100gあたり千円を越す豆は当然うまいが、セブンイレブンは400gで398円(税抜き)でコスパがめちゃくちゃいい。

そしてもうひとつ大きなメリットがある。それは日本全国どこでもいつでも買えるということだ。例えば実家に帰省したときとか旅先でとか。あるいはカフェが閉まっていても関係ない。安定的に供給されている安心感は大きい。いつでもどこでも慣れ親しんだコーヒーの味を楽しむことができるから私は好きだ。

でもその手軽さからコーヒーを一日に何度も飲むよになっていた。ドリップしているもののテキトーな淹れ方になっていた。ここで話は一番始まりに戻る。鎌倉のカフェのマスターの動画を見てハタと気づいた私は丁寧に心を込めてコーヒーを淹れてみようと考えた。

コーヒー好きは淹れ方スキルを上達させるべき理由

愛用のコウノ式のドリッパーに無漂白の円錐型フィルターをセットして挽いてあるコーヒー豆を入れる。(ここでも相変わらずセブンイレブンのオリジナルブランドだ。)

次にポットで沸かした熱湯をドリッパーではなく、コーヒーを溜めるサーバーに注ぐ。それをまたポットに戻す。これを3.4回繰り返す。お湯が適温になるらしい。そしてドリッパーをセットしてコーヒー豆の中にお湯を少し注ぐ。泡が“500円玉“くらいになるまで注いだら1分間くらい蒸らす。コーヒーのほのかな香りを感じながらちょっと待つ。そしてここからが本抽出。ポットから出るお湯をできるだけ細くして注ぐ。泡がフィルターの縁に達したら一旦ストップ。コーヒーがサーバーに垂れていく音が聞こえる。香りも一層芳しくなる。同じことをサーバーのコーヒーが目安の量になるまで何度か繰り返す。できた。

カップに淹れたてのコーヒーを注ぐと湯気からアロマが薫ってくる。そしてひと口。うまい。昨日までのコーヒーと全然違う気がした。翌日もそのまた翌日も同じようにしてコーヒーを淹れてみた。(一日一回だけと決めて集中。)そしたらやっぱりうまい。セブンイレブンの豆だということに変わりはないのに。私は正しい手順で心を込めてコーヒーを淹れただけだが、どこにでもあるセブンイレブンのコーヒーの潜在能力をさらに引き出すことに成功した。

この経験からこれまでずいぶんもったいない淹れ方をしていたなと反省しつつも今度久しぶりに鎌倉のカフェで豆を買ってきてこの方法で淹れたらどんなにうまいことだろうかと、その日を楽しみに感じた。

 

 

ベランダで家庭菜園はじめました。

 自宅のベランダを山野のようにしたいと思ってそのへんの野草をよく鉢に植えている。

ドクダミ

 去年持ってきたドクダミは色んな鉢に寄せ植えをしていたがどの鉢でもたくましく育った。たくましいわりに白い花が可憐なのでひとくき摘んで生けている。

┃のばら

 毎年小さい花を咲かさるバラの鉢に、道端のコケを植えた。そしたら去年とは比べものにならないくらい枝葉がもっさりおいしげった。コケが何をしたのだろう?それとま別の原因があるのだろうか?

┃ブルーベリー

 地元の自治体がブルーベリーの枝を配布していたものをもらったのが今から3年くらい前。スズランのような白い花が咲くが果実はいちどもつけたことがない。今年は花が散った後に果実になりそうなものが1つ2つあったのでちょっと期待している。葉っぱは秋になると紅葉する。毎年部屋からベランダを眺めるときれいだ。

┃わらび

 ある日ブルーベリーの鉢からわらびが生えてきていた。昔から春の訪れを告げる縁起モノとされているわらびは成長するのがめちゃくちゃ早い。あっという間に葉っぱだらけになってしまう。そうなる前に食べとけばよかった。ところでこれ食べられるんだっけ?

┃柳の枝

 風の強く吹いた翌日に近くの池で折れた柳の木を拾ってきた。枝を水切りしてしばらくバケツにつけたあと鉢に挿しておいた。そしたら根がはったらしく枝から新しい芽が生えてきている。もっと大きくなってほしい。ベランダに柳の枝の葉がゆれていたらステキだろうから。

┃小松菜

 料理のときこれまで捨てていた小松菜の根っこがついた切り端部分。よくみるとちっちゃい葉っぱが恥ずかしそうに隠れていた。これも植えたら育つのではないかと思ってやってみたが虫に喰われてうまくいかなかった。次に水を張った花瓶に切り端を入れて水耕栽培に切り替えてみたがそんなに大きくはならなない。それでもベビーリーフくらいには育つのでサラダ的に使えることがわかった。

┃バジル

 私としてやはりバジルをキッチンからすぐ手の届くところで育てたいとずっと思っている。なぜなら織田裕二が全盛期の頃、フジテレビのトレンディドラマで、マンションのベランダからバジル採ってパスタに入れていたシーンに激しく憧れたからだ。私にとって家庭菜園のイメージといえばこれ。

《おわり》

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小津安二郎の『晩春』を観る用意はできているか?

 

 

序章

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Are You Ready ?

小津安二郎が映画監督になったのは学生時代に観まくった映画への憧れからだったといいます。

当時の小津安二郎の日記には鑑賞した映画が記されています。

そのほとんどが当時のハリウッド映画でした。

そのハリウッド映画の脚本は当時も今も三幕構成の枠組みで書かれているそうです。

第一幕は誰が何を何のためにする物語か共有する幕。

初めの10分間で必要な予備知識を観る側に与える「設定」の時間であると同時に、観る側にとってもこのまま見続けるかどうか「判断」するための時間。

すべての映画にとって大切な最初の10分間。

今回取り上げる『晩春』は、あの『東京物語』より4年早く撮られていて、いわゆる「小津調」が確立された作品として知られています。

では最初の10分間を描写していきましょう。

 

たった10分だけの「晩春」レビュー

 

スタッフと出演者の紹介をテーマ曲にのせてきっちり2分。

ファーストカットは北鎌倉駅

風に揺れる草木。

仏閣の境内の風景。

ウグイスの声。

そこは鎌倉の名刹円覚寺か?


境内の茶室をローアングルから。

着物を着た若い女性が登場。

原節子だ。

先に着いていた年配の女性(杉村春子)の隣へ座って話しかける。

 

「おばさま、お早かった?」

「ううん。ほんの少し前。今日お父さまは?」

「うちでお仕事。昨日までの原稿がまだできなくて(笑)。」

 

そのあとはお得意の無駄口トークが始まる。

虫に食われた縞のズボンが直らないかと原節子にお願いして持ってきた風呂敷を渡す杉村春子

 

「やってみてよ。これ。」

「あっ、もってらしたの?(笑)」

「おしりのとこ二重にしといてね。」

 

別の妙齢の女性(三宅邦子)が遅れて登場。

杉村春子と軽い挨拶ひとことふたこと。

 

「またご一緒かと思って新橋の方でちょっとお待ちしてみたんですけど。」

「一電車遅れまして。」


仏閣建物外観。

ローアングルで廊下から茶室を臨む。

茶室内では帛紗さばきをして茶杓を浄める茶湯の先生の姿。

ここからしばらくセリフはない。

背景音楽が流れる中、茶碗に注がれる柔らかいお湯の音、茶を点てる茶杓のシャープな音。

そしてウグイスの清らかなさえずりも絶え間なく聞こえてくる。

原節子茶の湯の先生の点前を真剣に見つめていた。

女性たちのいる茶室から離れてカメラの視点は庭園へ。

そこに咲いている花は晩春の水仙か。

山の木々のカットを経て場面は別の場所へ。

そこでは初老の男性と若い男性が文机で何やら作業をしている。

初老の男は笠智衆である。

 

「ないかい?」

「あっ。ありました。 “フリードリヒ・リスト(Friedrich List)“。 やっぱり"ツェット(z)"はありませんね。エル、イー、エス、テー。」

「そうだろ? エル、イー、エス、ツェット、テー(Liszt)のほうのリストは音楽家の方だよ。」

 

突然ガラガラと玄関が開く。

 

「電燈会社でーす。メートル拝見します。」

 

ここで一旦2人の話しが中断する。

 

「踏み台貸してください。」

 

玄関先での電燈会社の作業員の声を聞いて笠智衆に尋ねる。

 

「どこです?」

「廊下にあるんだがね。梯子段の下の。」


リストについて話題が再開するも作業員の声がまたしても割って入る。

 

「3キロ超過でーす。」

 

そして来た時と同じようにガラガラと玄関を閉めて帰っていくと笠智衆は書き上げた原稿を若い男に渡して尋ねる。

 

「今までのところ何枚ぐらいになるかな?」

「十二、三枚ですね。」

「そうか。あと六、七枚だねぃ。」

 

場面は家屋の外に切り替わる。

向こうから歩いてくるのは原節子

着物を着ているからさきほどの茶会の帰りのようだ。

 

「ただいま」

 

そこには先程の笠智衆と若い男がいる。

ということはそこが自宅だとすると笠智衆は父親だ。

茶会の席で原節子が言っていた“うちでお仕事“とはこのことだったとわかる。

 

「お清書? すいません。助かっちゃった。」

 

若い男が手伝っていた作業は、きっと普段は原節子が手伝っているんだろう。

原節子は若い男を労う。

 

「ゆっくりしてらしてよろしんでしょう?」

「 いやあ、今日はおいとまします。」

「いいじゃないの。明日だったら私も一緒に東京いくわよ。」

「何だい?東京。」

「病院。それからお父さんのカラーも買ってきたいし。」

 

原節子の話しを受け流すように若い男がが笠智衆に麻雀の話を振る。

すると年配の男は麻雀をするために“せいさん“という人物を誘うことにした。

 

「おい!紀子!紀子!」

 

彼の娘(原節子)の名前は「のりこ」だ。

 

「もうお書けになったの?」

「うん。あと少しなんだ。」

「だめよ。」

 

麻雀は原稿が全部書き終えてなさったらという意味だ。

笠智衆はふてくされて原稿執筆に戻ると語気を荒げて捨て台詞を吐く。

 

「お茶!お茶!」

 

タバコを乱暴にくわえて不満を大いに表明している。笠智衆にしては珍しい演技だ。

 

小津映画は最強のコミュニケーションツールになる

以上が『晩春』のはじめの10分間でした。

どうでしょう、随分と雑談が多い気がしますし、風景もたっぷりインサートされていましたね。

つまり物語に直接影響しない「間」に多くの時間を割いていた印象を受けます。

私はそれを、小津安二郎監督が映画と鑑賞者がコミュニケーションをとるための仕掛けだと推察しました。

例えば、「雑談」はコミュニケーションを円滑にしますし、風景なんていうのは時として言葉以上に印象に残ったりもします

『晩春』とのコミュニケーションが上手くとれたとしたら、この先にでてくる日本映画屈指の名場面の数々を目撃することができます。

『晩春』に限らず小津映画はもう50年以上見続けられている不朽の名作ですから、国内外に広がる鑑賞したことのある人どうしだったら、お互いにあの名場面や、お気に入りの場面について語ることができます。

つまり小津映画は、世代も国籍も超える最強のコミュニケーションツールなのです。

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利休にたずねよう、おもてなしとは?アートとは?

千利休、セクシー説

2019年の春、米国の現代アーティスト、トムサックスさんの展覧会が東京で開催されました。

その名も「TEA CEREMONY(茶会)」

展覧会会場にはショートフィルムを上映しているスペースがありました。

そこには NASAチェア と呼ばれるパイプ椅子が数列配置されています。

よく見るとひとつひとつに古今東西のセレブの名がマジックペンで書かれています。

その中には「RIKYU」や「CHOJIRO」の名もあったと思います。

RIKYUとは即ち茶人の千利休であり、CHOJIROは陶工の長次郎です。

その頃私はちょうど利休にたずねよという小説を読み、利休のイメージをアップデートしたばかりでした。

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物語は千利休切腹の当日から始まります。

このスリリングな日を起点に、利休を含めた複数の人物の視点でもって歴史的事実と事実の間を著者の想像したフィクションで紡いでいく趣向です。

信長や秀吉をはじめとする安土桃山時代の有名人が登場し利休の美意識と対峙します。

ところで利休作の茶道具のいくつかは現代に伝世しています。

それらは侘び寂びのコンセプトに沿って作られたものです。

作家は利休が作った真塗りの水差を実際に目にしたとき、艶っぽく感じたといいます。

利休は実はとても艶やかな男だったのではないだろうか?

だとしたらきっと鮮やかな恋をした人だったのではないだろうか?

そんな想像が執筆のきっかけとなり作者は物語の中にセクシーな要素をただよわせています。

私にとって千利休といえば桃山時代の有名な茶人という記号のようなものでしかありませんでした。

しかし本を読んだ今、本当の利休も小説のようにセクシーな利休であってほしいと私は思っています。

そう思えば小説の利休の一挙手一投足には愛がこもっていたように感じてきます。

例えば、ある理由から囚われた高麗の女の心情を察した利休は高麗の料理を自ら作り女に供しています。

その時高麗の言葉を添えることも忘れていません。

あるいは、秀吉の黄金の茶室をプロデュースした際、利休は畳と障子に鮮烈な緋色を配したといいます。

緋色が黄金に反射して艶っぽい空間を作り出す。

それはそれは世にもセクシーな光景だったに違いありません。

茶の湯はもてなしの心が大切だと聞きますが、本当に大切なのはその源泉が何であるかなのではないでしょうか?

桃山時代の現代アーティスト、利休のおもてなしの源泉がLOVEだったようにです。

 

利休以来の茶の湯イノベーション

さて、21世紀の現代アーティス、トムサックスさんの話には戻りましょう。

展覧会の期間中、トムさんのお点前が披露された日がありました。

私は度肝を抜かれました。

展覧会場に茶の湯の世界が構築されていたのです。

門があり蹲があり池もあります。

灯籠や松の木まであります。

そしてもちろん茶室も設てあります。

つまり露地が形成されていたのですがこれらはすべてDIYによって制作された歴としたトムさんの作品群でもあります。

茶会が始まるとホスト(亭主)であるトム さんが三人の客を伴って露地をゆっくりと案内しながらやってきました。

茶室にゲストが入るとまず供されたのはサケ(日本酒)とオレオ。

ゲストはサケを呑みオレオをつまみます。

そして薄茶の点前が始まるとトムさんはは整理整頓された棚から奇妙な茶道具を取り出すのです。

トムさん手捏ねの NASA茶碗 です。

そして十徳ナイフのようなツールから茶杓がシャッと出てきました。

茶入からすくった抹茶を茶碗に投入すると電気ポットのお湯をゴボゴボと注ぎます。

そしてモーター付き茶筅のスイッチオン。

モーター音がしたかと思うと一瞬にして茶が点ちました。

正客から順に茶の湯の作法に則りお茶をいただいていきます。

これで終わりではありません。

茶会はここから佳境を迎えたます。

みんなが一服飲み終わると今度は余興の時間となります。

木箱にどっさり入っ金属類を畳の上にばら撒くトムさん。

おもむろにゲームのルール説明をしだしました。(もちろん英語で)

そしてごろんと横になります。

客たちも足を崩して謎のゲームがはじまりました。

時々誰かが何かをするとサイレン音が響きます。

トムさんは楽しそうにサケをゲストに勧めながら寛いでいました。

すべてが終わった後、使用した道具類をすべて片付けると茶室は元の整然した状態に戻りました。

さて今回の「TEA CEREMONY」、日本人から見たら、アメリカ人による茶の湯のパロディとして面白がる見方もできます。

実際に見物客からは滑稽なものをみるような失笑も聞こえてきました。

しかし私はこのアーティストのおもてなしに心から感動していました。

実際トムさんは正式な茶の湯を学んでいると聞きました。

その経験から彼は茶の湯の本質を掴んだのでしょう。

利休のもてなしの心の源泉がLOVEだとしたら、トムサックスさんの場合はFREND SHIP(友情)ではないでしょうか。

友を招き、友とリラックスした時間を過ごすことをしたかったのではないでしょうか?

本質さえ掴んでいれば茶道具やしつらえはもっと自由でクリエィティブに遊べるのです。

このように私は「TEA CEREMONY」の全てからトム ・サックスさんのおもてなしの心をを強烈に感じたのです。

 

千利休たちの特殊能力

千利休をはじめいつの時代にも現代アーティストは存在していました。

20世紀にはジョン・レノンがいました。

ビートルズ解散後間もない頃のこと。来日したジョン・レノンが歌舞伎鑑賞をしたそうです。

話の筋はもちろん日本語もあまり知らないジョンは芝居に釘付けととなり涙を流して感動していたというのです。

アーティストには本質を掴む能力が備わっているということを証明するようないい話です。

【おすすめ記事】ジョンレノンの魂を箱根、軽井沢、そして東京で感じた時の話

願わくば、ジョン・レノンがホストの「TEA CEREMONY」を体験してみたかったですねえ。

私たちの前でジョン・レノンもお点前を披露してほしかったですねえ。

その時のお茶碗は「NEW YORK CITY」or 「WAR IS OVER!」?

『サピエンス全史』

『サピエンス全史』を読んだ(ことにした)私の場合、“虚構“という概念に興味を持ちました。

そんな新しい視点を持つと物事の見方が変わってきます。

その頃私は『山椒大夫』という日本の古典映画を観ていたのですが、サピエンスの虚構とはこういうことなのかもしれないと思わせる世界がありましたので紹介します。

山椒大夫』〈1954〉

溝口健二監督

物語の舞台は平安時代末の日本。

平家が支配していた時代です。

経済も政治も宗教でさえすべての秩序は平家によって統制されていました。

つまり平家による壮大な虚構の上に築かれた社会です。

貴族たちは各地に荘園という私有地を持ちそこからの年貢を収入源としていました。

貴族から荘園の管理を任されているのが山椒大夫という極悪人です。

虚構というフィクションははたとえそれが善でも悪でも見知らぬ人々を団結させてしまうチカラがあります。

山椒大夫はその力を利用して荘園を支配しているのでした。

世の中をどう見ていますか?

物語はやがて厨子王という主人公によって予想外な結末をもって終わるのですが、新しく得た視点はそれからも待ち続けています。

そして最近こんなことを思うのです。

私たちが毎日生活している世の中ってやつは、いつかどこかのサピエンスが作った虚構でいっぱいだなあと。

見分けがつかないようにずっとカモフラージュされたままここまできたけど、そろそろバレだしてきている。

そんなフィクションに心当たりはありませんか?

〈おわり〉

 

 

小津映画から学ぶこれからの在宅時間の過ごし方3選

小津安二郎監督の作品に『お早よう』というちょっと変な映画があります。これまで何度も鑑賞しているこの作品ですが、2020年の在宅の中で見返してみると意外な気づきがありましたのでご紹介します。

 

『お早よう』は1950年代の映画です。どこかの郊外にできた新興住宅地で暮らす人たちの窮屈なコミュニティを描いています。奥さま方の神経戦と昭和キッズの謎の遊びを軸に物語が展開していきます。

仕事は「信頼貯金」で回っている 
 リモートワークでの業務は各自がこれまでに積み上げてきた個人の信頼性を使って行うことに気づかないといけない。これを「信頼関係の貯金」と呼ぶ。どういうことか?

 例えばアナタが誰かに業務上での協力を求めたとする。その時相手がまず思うのは協力内容ではなくアナタに対しての印象だ。好印象であれば気持ちよく引き受けてくれるだろう。だが悪印象を持たれていたのであれば断られる可能性が高くなる。

 つまり相手はアナタの信頼性を元に対応を選ぶということだ。その際どちらにしろアナタの「信頼貯金」は引き出されてしまうが、信頼の有無によって残高の減り具合が全然違うことは言うまでもないだろう。

┃雑談はコミュニケーション
 信頼貯金の形成に必要なのは実は「雑談」だ。日頃から雑談というかたちでコミュニケーションを取っておくことで、信頼貯金が少しずつ増えていくのだ。

 雑談によって仕事をする仲間の今の状況、価値観や働き方を自然と理解していくことができる。そうすると自然と助けを求めやすくなるし、「あの人に相談してみよう!」といった連携のきっかけにもなる。

例えば、アナログのチカラを見直すきっかけを得たことだ。私たちの世界はデジタル機器によってめちゃくちゃ便利になっている。ところが最近の私たちの生活の中でマスク、手洗いといったアナログの重要度が増している。

 

そしてあいさつの大切さも忘れてはいけない。とはいえ映画で子供たちが言っていたように実はあいさつなんてムダなものなのかもしれない。実際母親たちの雑談を年柄年中見聞きしていたら子供がそう思うのも不思議じゃない。

 それでもあいさつはムダではないと思う。コミュニケーションの始まりはいつもあいさつからだからだ。 しかしどんどん忙しくなっていった私たちは長い間あいさつの価値を顧みることがなくなっていた。その代わり何か別のの物に価値を見出そうと躍起になっていやしなかったただろうか。

 あいさつがないからコミュニケーションが始まらない。お互いのことがよく理解できない。今そんなディスコミュニケーションの影響が社会に出ててきているのではないだろうか。

 

┃アナログ回帰で得る豊かさがある。

 アナログにはデジタルにない魅了がある。『お早よう』は1950年代末の物語で洗濯機やテレビがトレンドの先端だった。もちろんデジタルとは程遠い昭和レトロなアナログ機械だ。炊飯器も機械化されていたが、炊いたごはんを入れるのはおひつだった。

映画はおひつがまるで何かのアイコンの様に配置されたり出演者が持ち歩く。 おひつからご飯をよそって食べるシーンを見ると、私はそのおひつのフタを開けたときの蒸気と薫りを感じることができる。そのご飯の味を味わうこともできる。なぜなら私もおひつを愛好し毎日おひつごはんを食べているからだ。

木曽さわらでできたおひつでまわりは銅のタガでしまっている。映画のおひつと偶然同じものだ。ご飯からはさわらの木の薫りが漂い味わいはしっとりとしていてほのかに甘い。食事の楽しみはこれだけでも毎日増えるのだ。


ある朝の風景。画面右下のおひつはきっと5合。

┃井ステイホーム、井ステイシンキング

映画の終盤で初老男性の定年にまつわるエピソードがある。それまでご婦人方の社交や子供たちの珍騒動だった物語がふと立ち止まったような瞬間だ。笠智衆の家に定年退職した近所の男が訪ねてきた。再就職をしたとのことだった。男が帰ると傍にいた妻が呟く。

──うちも、そろそろ考えとかないとねぇ。

──ん〜、、、。

笠智衆は沈黙する。

 2020年は多くの人が一旦立ち止まった。その分時間が増えた。その時間を何に使うかは人それぞれだ。これは定年退職後の疑似体験と言えないだろうか。そしてとても貴重な体験だ。だって少し先にあった定年後の世界をだいぶ遡った今に経験できるなんてちょっとない。だから時間をかけてよく考えた方がいい。ヒマだなんていってると“本番“でもきっとヒマになるだろう。今でも色んな情報に影響を受けて動揺しているのだから将来もきっと同じく動揺するに違いない。

 まずは心の持ちようだ。心を整えなければならない。どんなに時代を経ても価値の変わらないものに触れるといいと思う。 だから私は小津安二郎の映画をおすすめする。《おわり》

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